私の30年代
命札その3
昭和の風景を思う
昭和30年代の子ども時代、私たち姉弟は父と一緒に近くの川で水浴びをするいう大きな楽しみがあった。
一番下の弟はまだ幼児だったので父が肩車をし4人で家から川まで歩くのであるが、家族旅行などまずないこの時代、これが父と過ごす最高に嬉しい時間であった。
父は小学校の教員であったが、夏休みは子どもの世界のことであって、父は家にいることはほとんどなかった。しかしそれが普通で極当たり前であると過ごしてきた。
そんな中、夏休みの数日をやりくりして私たちを川遊びで楽しませてくれたのだからありがたいことであったと大人になって思うことである。
だからこそ夏休みの期間それも極限られた日数を父とこうして過ごせた時間は特別に印象に残る。
水は澄み水量多く、浅い所もあれば深い所もある変化に富んだ川であった。
今では昔の面影は全くないのが淋しい限りである。
川では小さい弟を川の浅瀬に座らせてそのそばで私たちは水遊びを楽しんだ。すぐそばで父が泳ぐ景色は今も鮮明に残る。
父は弟たちに岩の窪みを流れるきれいな水に顔を浸けて水中で目を開ける練習をさせた。遊びながらのこの練習経験が今でも楽しく懐かしく、またその後に役立つ教えだったと当時を懐かしんだ。
さて遊んだ後は父が私たちを代わりばんこに背中にのせて平泳ぎで泳いでくれた。今でもそのときの父の背中や水しぶきの感触が鮮やかによみがえるのである。落ちないようにつかまっているのはなかなかに難しくスリル満点であった。
遊びの場所は危険と隣合わせ
夏休みだからと言っても父は家にいることはほとんどない。好きなだけ川遊びに行けるわけではない。父がいないときはというと、村の子たちが今でいう学校の子どもたちの縦割り班のような編成で川遊びの集団ができていた。そこへ私たちも一緒した。
小学生低学年から中学生まで総勢十数人余の集団である。
夏の一番暑い時間帯を楽しく過ごした。
私の時代は大人たちの監視もなく自由に川遊びを楽しんだが、弟たちからは、地域の大人が交代で付き添い安全確認の見守り体制ができたという。ほんの数年の差であるから驚く。この数年の間の安全への関心や体制に時代の大きな変革を感じる。
弟の記憶では、みんなで横一列に手をつなぎ川に入り、歩きながら危険なもの(例えば、ガラス片とか急激な深み等)はないか調べる。
安全とわかれば、4隅に赤旗を立てて、それを範囲として行動する約束だったそうである。私の時代にはみたことも聞いたこともない事ばかりで感心したりびっくりしたり。
さて、当時に戻る。
そこは浅瀬で水の流れが適度にあり幼児でもピチャピチャ遊びができるところもあれば、岩場が飛び飛びにありしかも水深があり泳ぐにはもってこいの場所もあり、さらには飛び込んでも安全な深さがある淵に、これまた誂えたように恰好の天然岩の飛び込み台まであって、子どもの遊び場としてはこれ以上はないという恵まれた場所であった。
男の子たちは飛び込みができて一人前という意気込みで、みんな競うように飛び込みの練習をしていた。
しかし危険と隣合わせであったこともまた事実である。
事故もなくみんな無事に大きくなったものである。
私は流される
私はここで死にかけた。そのときの顛末を書くと、
小さな雨台風が去った翌日のことである。水はわずかに濁っていたが少し水かさが増えた程度でいつもと変わらないようにみえた。
しかし、事故は起こるべくして起きた。
いつものように川に入り浅瀬で遊んでいたがいつの間にか川の中ほどまできていた。知らぬ間に深い方へ体が持って行かれたのである。
岸に戻らなくてはと思い一歩足を前に踏み出すのであるが、前に進めたはずの足がそのまま後ろへ持っていかれるのである。
何度やってみても足を動かす度に後退するのである。
こうして岸へ戻りたい一心で足を動かすのであるが、あがけばあがくほど自分の意思に反して体が浮くように流れに持っていかれるのである。
あっという間に水が首まできた。
小さいながらもこれ以上動いたら危険と思い、両足を川底につけて手では水かきをしながら踏ん張るのであるが、川底は小石がごろごろ足場は不安定。ややもすると体が浮き上がるように流れようとする。怖くて助けを呼ぼうとするが声が出ない。あのときの恐怖というものはその後体験したことがない。
つい先日のこと、昔死にかけたことがあったと話していたら、
「ああ、あの時の事やな。あの時の記事を書くんやな。」
と弟が言うので、どうしてそんなことがわかるのかと聞いてみると、弟曰く、前号その2を読んだら、そこに、次回
「続・その3」では、
『川で溺れ九死に一生を得た恐怖の顛末を書く。』
と予告していたのをみたと言う。
なるほど。私の読者はありがたい。
続けて、
「あのとき一緒にいたんやで。」と言うので二度びっくり。
私は知らなかった。と言うより忘れていた。
弟は続けた。
「あの時は、ほんの子どもで、何にも動けんかったしできんかった。何をどうしていいのかわからず他のみんなも同じで、ただ見ているしかなかった。」
と言うのである。もうびっくりしかない。
なんてこと、まだほんの子どもだったのに。
もうこのまま誰にも気づかれず死ぬんだと思ったとき、3歳上の従姉が助けにきてくれた。従姉は瘦せっぽちで私は太ちょで力も強かった。
それでも従姉がきてくれたことは心強く頼もしかった。
これで助かると思ったがなんということか。従姉は私のすぐそばを流されて行くではないか。
二人して流されてしまったのである。
私は知っていた。ここからほんの少しで更に深くなっていることを。
自然の力侮るなかれ
私はこのときの体験以来今日に至るまで肝に命じていることがある。川の水が増水したときは超危険ということ。水面は一見穏かにみえてもその下の水の流れは想像以上に速く人間の力は及ばないこと。
人間の力なんて大海に飲まれるありんこのようなものであることを。
大人の力子どもの力
ああこれで死んでしまうのだと思った時、他の子どもたちが私たちに気がついてくれた。しかしたまたまその日は高学年の男の子がいなかった。また中学生の男子もこの日はなぜかいなかった。悪い条件が揃っていた。
子どもだけではどうすることもできず右往左往しているだけであった。私の弟もこの中にいたのである。
それは幸運であった。
大人がたまたま通りかかったのである。真に救いの神とはこのことである。
間もなくして竹竿にロープをくくりつけた救助用具を取り出し、私たちがつかめるようにと細心の注意を払い流してくれたのである。
岸からは
言葉ははっきりと聞き取れないが、叫ぶような騒ぐような声が聞こえた。
こうして私たち二人は岸に戻ることができたのであった。
後々まで母は言っていた。
「助けてくれた人は村の消防団員の人で、救助方法や道具の扱いに慣れていたのであんたは助けて貰えたのやで。ほんまによかった。」
助けて貰えたこと、それがどれだけ嬉しかったかとも後年までよく話していた。
水の恐さを知ること
あのとき私は本能的に動かないようにしていたがそれがよかった。むやみに動いていたら多分
〘増水中の川、水浴び中に溺れ女児死亡〙と小さな記事になったことは間違いない。
助かりたい一心で判断した結果がたまたま運よく助けられたということである。
川は一見穏かでもその水面下は複雑かつ強い流れがあるという。
人が水中で立っているときが1とすると、横倒しになった場合、そこに受ける水の力は5倍になるといわれる。私は立ったままの姿勢を維持したので5分の1の力で耐えることができたのである。
また川は一見穏かでも上流で激しい雨になると急激に水位は上がり流れも急になる。局地的な雨には要注意である。よく川の中州に取り残されて救助隊が出動する場面を見るが納得できる。
伝える事の必要性と知る事の大切さ
水の季節になると次のような話をしてきたが今は久しくこのような話をする機会もなくなった。ちょっと淋しい。
〇子どもだけの集団は危険である。
〇家人に行先を伝えて出る。
〇水の事故の実態や経験がなくその恐ろしさを知らなかった。
〇救助道具の設置場所やその事実を知らなかった。
〇救助の方法や道具の使い方の実際を知らなかった。
〇救助の知識経験がある大人から学ぶことが大きい。
当時私たち子どもは救助道具の使い方を知らなかったし、まして設置してあることすら知らなかった。
今思えば大人たちは何らかの手立てを考えてくれていたから救助道具も備えていたのであろう。ただ惜しいかなその存在の必要性が薄くなり意識啓発がなかった。
もしあのとき救助用具の使い方を、また存在を知っていたなら子どもたちだけで使えたかも知れない。
ぴんこすずめ