十三塚に惹かれて
1枚のパネル写真から見えてくる
撮影・編集 竹内安紀氏
写真提供 久下自治会館
この写真には、右は金屋の噴気孔、不動尊、中央には金鉱採掘跡とその両端に鉄塔1基ずつ、左は石龕寺と奥の院までのルートがわかりやすく編集されていている。手前は農業用ため池で豊かな水が空の青を映して美しい。
この写真がいいのは、
①一枚に重要基点がすべて網羅されている。
②見るだけで実際に歩いたような気がする。
③歩いて確かめてみたいと思わせる。
④観光地にあるような絵マップとは違い実際の距離感や高低差がつかめる。
⑤動線がわかりやすい。
⑥山全体の形状から方向位置感覚がつかみ易い。
(もし道に迷ったとしても四方どこかへ抜けることができそう。個人の感想)
この6点です。
私が金屋の金鉱採掘跡に関心を持つようになったのは、金屋憤気孔跡の記事を書くために現地へ行った際、十三塚の遺構の存在と更に登山コースがあるような標識を見つけたことにある。そんなとき、折もおり、たまたまこの写真パネル(冒頭画像)に出会った。
何日か見ているうちに歩いて行けそうな気がした。しかし足に自信はなく登山は苦手だ。そんな私が、金鉱採掘跡まで頑張って歩いてみたいと思うから不思議である。
そんな訳ではじめは、金鉱採掘跡まで(これだけでも私には大冒険である。)と思うようになり、それがいつのまにか石龕寺の奥の院までめざしたい。いえ奥の院まで歩けるなら、石龕寺まで這ってでも行けるんじゃないかとそんな気になるから全く驚く。
十三塚由来の尊氏も歩いたであろう道をたどるのもまた感慨深いものがある。そこで、ついでながらにふれると十三塚の標識案内文には、尊氏が都から逃れて来た年代の記述がない。あくまで伝説の域を超えないからであろうか。
尊氏に関する本には、1336年、京都で、新田義貞、楠木正成、北畠顕家各軍に敗れて兵庫県丹波市を経由し県南部へ下り、九州へ向かったと記されている。
1351年弟直義との不和が生じ、その結果一時丹波に逃れ助かったという記述もある。しかし1358年に死去していることから考えると十三塚説はかなり無理がある。
いずれにしても、京都での戦いに敗れて亀岡から丹波へ、兵庫県を南下し海路で九州へと渡り、かの地で勢力挽回する尊氏のその後、そして十三塚の由来にも思いを巡らすこともできる。折も折、今、太平記が再放映されているのも感慨深い。
改めて思うことは、平安、鎌倉、室町、戦国、安土桃山、江戸、明治、大正と並べてみると、およそ1000年余の歴史が意外と身近に感じるから不思議である。
そんなこんなで、私にとってこの1枚の写真の価値は大きい。
気候のよい日、この行程是非歩いてみたいものである。
ピンコすずめ