気になるものを山南町誌に発見!「谷川道標に寄せて」の追寄稿
「谷川道標に寄せて」の追寄稿
山南町誌をみながらふと調べたくなった谷川交差点に立つ道標。
気になり始めて一年余も経過していた。
道標に刻まれた文字を解読したいことはもちろん、造られた目的やその時代背景などを感じたいと思ったのがきっかけである。
書き手にとっては一人でもたくさんの人に読んでもらえてこその喜びがある。
今回記事に目を通していただいたことを感謝したい。
この2月17日投稿文について、久下自治振興会3代目会長 廣瀬健吾氏から4サイズ2枚にわたる手紙と共に、「山南町歴史散歩…平成27年全戸無料配布」の紹介を受けた。
この冊子から久下地区の道標他の知識を得たことは大変に大きい。
「歴史散歩」内容に感動したことはもちろん、これだけの資料を収集編集に至るには筆舌に尽くせぬご苦労があったことにまず敬意を表したい。更にはこの資料の価値の啓発も高めるに値するものと考えている。
編集委員の方々を訪れて、私は直にその時その場の、ここには書ききれなかったであろうご苦労や感動喜び等インタビューしたい気持ちに駆られる。
今回解説の要約 以下三点(詳細は,山南町歴史散歩および廣瀬健吾氏の文面写し参照)
1 谷川道標の解読について
・「右 わだいくの 左 たきのたかさご」と読むこと。
2 冊誌編集当時、谷川地内所在不明だった二体の道標の所在について
・おせん地蔵に二体の道標が安置されていることが確認されたこと。
3 所在不明だったもう一つの道標について
・秋葉神社域(6区)への移設が確認されたこと。
次回は「おせん地蔵」を取り上げたいと決めていた。
2022年1月31日(月)雪の日にたまたま撮影した写真がある。
まさかこれが行方不明の道標二体だったとはそのとき知る由もない。
冊誌でこの事実を知ったときなんだか不思議な気持ちであった。二体一緒というのも
興味深い。
余談であるが、おせん地蔵について感じ驚いたのは、単なる伝承物語ではなく実話であったこと。しかも、奈良、平安の昔ではなく、たかだか文化、文政の時代というから驚く。私の先祖の墓石には、明和・弘化という彫があるがちょうどこの明和と弘化の間の時代になる。全く見当もつかない時代ではないことにまずは驚いた。
ときどき享保雛というお雛様の画像やときには現存物をみることもあるが、その時代よりも100年近くものちのことなのである。
余談ついでにもう一つ。
廣瀬健吾氏団長率いる鍋倉城跡登山の記事を読んだり、また参加した方から直接話を聞かせてもらったりする機会を得た。
登山の様子を聞いていると、麓から東山のてっぺん(頂上)まで登り切ったというから凄い。体力的にもかなりきついらしいことが伝わる。
道に迷わないようにとある区間には木にリボンを結んで、道なき道を行ったと聞いて私は自分も同じことをした経験上なるほど上級者の人も同じ行動をするものだとなんだか嬉しくなった。
私は少し前、山歩きで遭難まがいのぶざまな体験をしたが、お陰で山を「なめたらあかん」とつくづく悟った次第。
今回、実際このリボンが役立ったと聞いて嬉しい気持ちでいる。
最後に、「山南町歴史散歩…平成27年全戸無料配布」を参考にこれからも活用したいと思いを新たにした次第。道標その他見どころ多数で感謝で締めたい。
恐縮至極であるがここからは道標とは関係ない本当の余談なので忙しい方はスルーしていただきたい。
先日テレビで「丹波市の里山グレートレース174キロメートル」という再放送番組があった。
グレートレース
「壮絶!里山が牙をむく 〜丹波アドベンチャートレイル〜」
初回放送日: 2022年2月23日に詳しい。
まず丹波市の里山で、連続して174kmのコースがとれることに驚いた。
最大斜度60度の山道を3日間で駆け抜ける同規模のレースでは世界一過酷なレースと聞いた。
あと5キロメートルを残した地点で道に迷い、森の中を2時間さまよった後、主催者側から棄権を促された挑戦者がいた。
悔しかったであろうが、主催者の勧言に対して、もう一度出直し再挑戦するときっぱり言い切った姿が印象に残った。
山は何度でも挑戦させてくれる。
鍋倉城跡登山一行が結んだリボンはまだあるのだろうかなどと考えながら記事を終えた。
最後までお付き合い感謝。
ぴんこすずめ